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「奇縁-or-」


いつ来ても、この街の華やかさは変わらない。
フランスの首都―パリ。その第8区に位置する地下鉄リエジュ駅。

本田菊は、いつもの軍服ではなく、スーツ姿である。
春の暖かな日差しのため、コートも着ていない。

菊が腕時計に目をやると、針は3時を指していた。
「菊!」
待ち合わせの相手―アルフレッド・ジョーンズが息せききってやってくる。
彼がこんな風にぎりぎりの時間にやって来るのは、珍しいことではなかった。

「いきなり呼びつけてしまって、ごめんなさい」
「…そんなこと、気にしなくていいよ」
息を整えながら屈託なく笑うアルフレッドは、紺のブレザーに同系色のズボン、赤チェックのネクタイは緩みぎみ、という通学スタイルであった。
「学校に行くより、菊といた方が楽しいしね」
「…そうですか」

今朝、菊がここに行くとバッシュに告げたところ、猛反対されたため、譲歩案としてアルフレッドを護衛に付けることで、合意に至ったのである。
イギリス在住で、現地の高校に通うアルフレッドとしてはいい迷惑のはずなのだが、当人は全くそんな素振りを見せない。

「そういえば、今日はどこに行くんだい?」
「ああ、私の知り合いがこの近くに住んでいるんです。その人に会いに行こうかと思いまして」
「…ふーん」
瞳を伏せて、アルフレッドは興味なさげに答える。
「では、行きましょうか」

先導する菊の斜め後ろをアルフレッドがついて行く。
商店の立ち並ぶ大通りを、菊は迷わず進む。
時々道を変えながら、そうするうちに、人通りも少なくなってきた。
15分ほど歩いた後、一軒の民家の前で二人は立ち止まった。
よく言えば趣のある、悪く言えばぼろい、4階建てのアパートである。
他のアパートと違って、階段が外に付いている。

「申し訳ないのですが、アルは、ここで待っていてもらえませんか」
立ち止まって、菊はアルフレッドにそう告げる。
「えー」
アルフレッドはあからさまに不満げな様子だったが、
「…後で、アイス奢りますから」
という一言で、あっさりと機嫌を直した。

菊は階段を上って、二階に一つしかない扉をノックする。
しばらくして扉が開き、菊は中に入った。
「お久しぶりです、菊様」
出迎えたのは、黒い髪の二つくくりに褐色の肌、白いワンピースを着た少女だった。
「久しぶりですね。…その、様付け、なんとかなりませんか?」
「なりません!」
笑って、少女は断言した。

「Sey,qui est venu?(セー、誰が来たんだー?)」
部屋の奥から聞こえた問いに、"セー"は声を張り上げて答える。
「菊様ですー!」
「そうか、わかったー」

少し時間がかかって、この家の主がやってくる。
長めの金髪を後ろで束ね、上は黒のワイシャツの袖を七分まで捲り、下はジーンズを履いている。
彼の端正な顔立ちだからこそ似合う服装であった。
「久しぶり、菊ちゃん」
「お久しぶりです、フランシスさん」
"フランシス"と呼ばれた青年は微笑んで、菊を中に通した。

「セー、お茶を用意してくれないか?」
「わかりました、ご主人様」
そう言って、台所に走って行くセー。
菊は張り付いた笑顔でフランシスと視線を交わした。
だが、二人は何も言わずに、リビングの真ん中にあるソファーに向かい合って腰掛ける。
「相変わらず、趣味のいいお部屋ですね」
シックにまとめたリビングから、この家の主のセンスが感じられる。
「まあ、俺の家だからね」
「そうですね」
菊は笑って、彼の冗談ともつかない言葉を受け流す。

「ご主人様ぁ、お茶が入りましたー」
再び、菊の笑顔が凍りつく。
フランシスと目が合うものの、全く突っ込んでこない。
笑顔で聞き流す体勢である。
「…セー、その"ご主人様"っての止めないか?さっきから、菊ちゃんの視線が非常に痛いんだよ」
何故か小声になってしまうフランシス。
「あ、私のことはお気になさらず…」
紅茶の入ったカップを手に取り、菊は呟く。

「…ちょっと、驚いてしまっただけですから。…まさかフランシスさんに、そんな性癖があるとは思わなかったので…」
「違うよ菊ちゃん!それは大いなる誤解というものだ!」
フランシスは大声で訂正するが、セーが話に割り込む。
「なにが誤解なんですか、ご主人様。そう呼べっていつも言ってるしゃないですか」
「セー、俺はその言葉にこう付け足していたことを覚えてないのか?」
「なんですか?」
首を傾げて、セーは尋ねた。

「"誰も来てない時だけ"だ、と」

一瞬、しん、とした空気が流れ、すぐに重苦しい沈黙に変わる。
「………」
「…菊ちゃん!冗談だから!そんな今まで信じてた部下が、実は裏切り者の二重スパイで他の国と絡んでた、みたいな顔しないで!」
無言の重圧に耐えかねて、フランシスは叫び出す。
「…わかりました。そしてその例えは妙にリアルなので止めてください」
投げやり気味に菊は言って、カップを置く。
「セー、悪ふざけも大概にしてくれよ」
ソファーの背もたれに体重をかけて、フランシスは文句を垂れる。
だが、セーは聞く耳を持たない。
「わかりましたー」
いかにも適当な相槌を打って、セーは続ける。
「でも、よく言うじゃないですか。人生に必要なのは、青春の淡い恋の思い出と、スリルのスパイスだって」
「お前のは度が過ぎてるんだよ」

今後は菊の方を向いて、フランシスは言った。
「…最近、反抗期だと思うんだよ」
「そうですね。まあ、仕方ないんじゃないんですか?」
「それ、どういう意味かな…?」
「ご想像にお任せします」
「…で、今日は何の依頼?」

溜め息を吐いて、フランシスは諦めたように訊く。
菊は懐からUSBメモリを取り出して、机の上に置いた。
「この中身を、修復して欲しいんです」
「…なるほどねえ」
「報酬は、いつもの口座に振り込んでおきますから」
「もう一つ、いいかな?」
「なんでしょう?」
「新しいIPを用意してくれないか?」
「…わかりました。では、人を待たせていますので、これで失礼します」
菊は、セーにご馳走様でした、と礼を述べて立ち上がる。

「今度は、一階で待ってる彼も連れて来なよ」
「…それは遠慮させて頂きます」
玄関の前で立ち止まり、振り返って続ける。

「私の大切な部下が、色魔に喰われるのは嫌ですから」







同級生と話し込んでいたら、すっかり日も落ちてしまった。
聖レナーテ学園の制服に身を包んだ、金髪の少年が間借りしているアパートの一室は、暗闇に包まれていた。

「…Темно….Βключить свет,Toris……Ах(…暗っ…。電気つけとくしー、トーリス……あ)」
電気をつけて、金髪の少年―フェリクスは嘆息を吐く。

彼の相棒は、今ここにはいない。
相棒―トーリスは、ロシア国内の本部で休養中である。
そのため、フェリクスだけが任務に就いている。
ハリコフの失敗が、確実に響いていた。
トーリスは、最後まで一人で行くことを反対してくれたが、ボスの意向に逆らえるはずもない。

フェリクスは、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。
この部屋は一人には広すぎて、まともに使えそうにない。
そのまま眠りに落ちかけたところで、扉がノックされた。

「ちょっとええかー」
急いで扉を開けると、二人の人間が立っていた。
「…何?」

一人は黒髪の癖毛に、口調が特徴的な長身の男。
もう一人は茶髪に身長は低め、いつも眉根を寄せている少年である。
雇われ傭兵で、今は一応仲間なのだが、フェリクスは二人の名前を覚えていない。

「シャワーのお湯がな、出えへんくなってんかあ。やから、貸してもらお思って」
「あっそ。なら、入れば?」
「ありがとうなあ。ほら、ロビィも礼言わな」
「…ありがと」
長身の男の後ろから少し顔を覗かせて、"ロビィ"は礼を言った。

ロビィがシャワーを浴びている間、フェリクスは長身の男にインスタントコーヒーを淹れる。
「おお、ありがとう。…ロビィと違って気が利くなあ。あ、こんなこと言ったって言わんとってな」
トーリスとはまた違った部類のよく喋る人間だと、フェリクスは認識する。
「…わかったし」

長身の男はコーヒーを啜る。
「…あのさあ、ほんまにあの作戦やるつもりなん?」
「……」
「雇われてる身で言うのもあれやねんけど…」
「それが本題?」
「いや、シャワー壊れたんは本当やし…。世間話みたいなもんや」
フェリクスの意図を読んで、男は苦笑した。
「…あの人次第だし」
「そっか。…確かに、そうやな」

男は白い息を吐いた。もう春なのに、この部屋は、寒い。