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「奇縁-Do-」



至って普通の、日常的な光景である。

黒板に白い文字が刻まれていくのも。
室内がしん、としているために、教師のドイツ語がよく響いているのも。
周りの生徒達が、皆一様に制服を着て、授業を受けているのも。


アーサー・カークランドにとっては、ありえないほどの日常だった。


オーストリアのチロル州の州都、インスブルック。
"イン川に架かる橋"に由来する都市名の通り、インスブルックは川を跨いで位置する。
その西方にある私立聖レナーテ学園高等部では、国際交流の一環として、留学生の受入をしている。

そんな聖レナーテ学園高等部、三年生の教室に、アーサーはいた。

板書を写し終わり、彼はペンを回し出す。が、すぐにそれは手から離れ、ノートの上を転がった。
高校教育課程を終えて二年になるアーサーは、嘆息を吐き、何故こんなことになったのかを、思い返した。



 *



一番に思い出されたのは、嬉々としている菊の表情である。
艦長室には、アーサーの他にルートヴィッヒ、フェリシアーノが呼び出されていた。
いつになく気分が高揚している菊を見て、アーサーはルートヴィッヒと視線を交わす。
そうして、一抹の不安を共有した。

立ち上がって、菊は言う。

「次の作戦は、高校に潜入ですよ!」

「は?」
思わず口に出していたことに気付き、ルートヴィッヒは咳払いをして尋ねる。
「大佐。それはどういう意味ですか?」
「そのままの意味ですよ。皆さんには、聖レナーテ学園に潜入してもらいます」

菊はぶつぶつと何かを呟き続けている。
よく聞き取れないが、高校…一時の恋…青春…という言葉が三人の耳に入った。

「具体的には何をするのか教えていただきたいのだが」
また咳払いをして、ルートヴィッヒは菊の意識を本題に戻した。
「…ああ、要人警護です」
厳密に言うと違うんですけど、と前置きをして、菊は説明を始めた。

「先日、ドイツ警察のPCがハッキングされました。盗られたのは、13年前に起こ ったローゼンハイム連続一家殺傷事件の被害者のデータです」
ルートヴィッヒの眉がぴくりと動く。
「その被害者の一人である、ローデリヒ・エーデルシュタインを警護する。それ が任務です。現在彼は聖レナーテ学園高等部の音楽教師をしています。そのため に、仕方なく、潜入作戦を立てたんです」
"仕方なく"をひどく強調している言い方だったが、菊の口元は僅かにつり上がっている。

「アーサー・カークランド一等兵士は高等部三年、ルートヴィッヒ二等少佐は代理の体育教師として潜入してもらいます」
「えー、俺は?」
フェリシアーノが手を上げて質問する。
「フェリシアーノ二等中尉は現地で二人のバックアップを行ってください」
「俺は潜入しないのー?」
「残念ながら…。ですが、万が一のために制服は用意してありますよ」
フェリシアーノは単純に喜んでいたが、他の面々には"万が一"という言葉が耳に残った。

「…制服という歳でもないだろう」
ルートヴィッヒが呟くと、フェリシアーノはちらと不満げな視線を送る。
「翌0600をもって、作戦開始時刻とします」
解散の号令を出しかけて、取り止めた。

「ルートヴィッヒ少佐。この後、少しよろしいですか?」
ルートヴィッヒが頷いた後、解散した。







部活棟と教室棟を結ぶ渡り廊下。
授業中なので、そこは静まり返っている。

校内地図は頭の中に入っているものの、見慣れない景色にルートヴィッヒは違和感を覚えた。
光景を記憶した地図と結びつけながら、部室棟に向かってゆっくりと歩き出す。

「…あの」

後ろから声をかけられ、ルートヴィッヒは振り返る。
彼の目に入ったのは、黒髪に眼鏡をかけ、スーツを着た白人の教師―今回の護衛対象、ローデリヒ・エーデルシュタインだった。

「…何ですか?」
「そちらは、部室棟の方ですよ」
「そうですね」
「……」
何故かローデリヒに溜め息を吐かれてしまい、ルートヴィッヒは苦笑をする。
「迷ったのなら、素直にそうお言いなさい」
「え?」
「案内くらいなら、して差し上げますから」
「…あ、ありがとうございます」

よくわからないが、そう申し出られたため、ルートヴィッヒは礼を言う。
ローデリヒは、満足そうに頷いて、二、三歩踏み出す。
だがすぐ歩を止め、振り返った。

「私はローデリヒ・エーデルシュタインと言います」
「はい。あ、私は…」
「知ってますよ。昨日の会議で聞きました」
踵を返して、ローデリヒは歩いて行く。
それに遅れないように、ルートヴィッヒはついて行った。



「あちらの教室が化学実験室で、その隣が化学準備室…」
なかなかの広さを誇る校舎の案内も終わりに近づいたところで、昼休みの始まりの合図であるチャイムが鳴り響いた。
「…あ」
「…鳴ってしまいましたね」
どうしましょうか、とローデリヒが尋ねた。
それを護衛対象とより接近できる機会とみて、ルートヴィッヒは答える。
「…最後まで案内してもらえると、助かるのですが」
「そうですか。では、案内します」
僅かに微笑んで、ローデリヒは案内を再開する。
「化学準備室の向かいが、物理実験室です。その隣にあるのが、物理準備室」
二人は廊下の隅の階段を下り、今度は一階を回る。

「ここの学校、広くて大変でしょう。初めて来た時は、私もよく迷ってしまって」
「そうですね。以前、勤めていた学校より広いです」
ふと立ち止まって、ローデリヒは訊いた。

「…先生は、お幾つなんですか?」
ルートヴィッヒは、瞬時にレジェンド―偽経歴を頭から引き出して答える。
「26ですよ」
「あ、では、私より年上なんですね」
「お幾つですか?」
「24です。…この学校、私と同年代の方があまりいらっしゃらなくて…」
ローデリヒは右手を差し出して、続ける。
「だから、という訳ではないのですが…よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
ルートヴィッヒはローデリヒの手を握る。差し出されたその手は、暖かかった。







「ちょっと、聞いてるの?」
アーサーの隣を歩く女子生徒は拗ねた口調で訊く。
「…悪い。少しぼんやりしてたみたいだ」
アーサーも地図を覚えているのだが、学校案内をしたいと、女子生徒が名乗り出たのである。
そのため、一階を並んで歩いていた。
その途中、ルートヴィッヒと目標の姿を視認した所為で、意識がそちらに向いてしまったのだ。

「もう、ちゃんと聞いといてよね」
「悪かったって」
茶色にウェーブがかった髪の女子生徒はアーサーの左腕を抱き寄せ、笑って言った。
「別にいいけど。次、行こうよ」
「あ、ああ」
ふんわりとした雰囲気に、アーサーは、何故か居心地の悪さを感じてしまう。
だが、女子生徒がそれに気付くことはなかった。

二階に上がって、教室棟の案内が始まる。
「…二階は、二年の教室があるんだよ」
腕を組んだまま歩くことに多少の抵抗があったが、とりあえずそのままにしておくアーサー。
二人は、二階の廊下を歩く。 とその時、この学校には珍しく、英語での会話を耳にした。

「……at…you…in…,Feliks?」

覚えのある名前が、嫌にはっきりと聞こえた。
アーサーは思わず振り返る。
三人の男子生徒が、楽しそうに談笑していた。
そのうちの一人、金髪に肩につく程度のショートカット、女と見間違うほど白い、細身の少年と目が合う。

「…どうしたの?」
すぐに少年は目を逸らして、話に加わった。
「いや、なんでもない」
人違いだろうと考え直して、アーサーは緑の眼を少年から離す。
けれども、妙な胸騒ぎが消えることはなかった。