ぽつぽつと降り出した雨は、すぐに蛇口を捻ったようなどしゃ降りに変わった。
まだ時計の針は二時を回ったところにも関わらず、空を占領している分厚い雲の所為で、夕方と勘違いしそうな暗さである。
クーラーを除湿に設定して、フランシスは友人のために食事の準備を始める。
「つっかれたあ!」
いつものカウンター席に座り、その友人―ギルベルトは机に突っ伏す。
「はいはい。お疲れさま」
適当なねぎらいの言葉を投げかけたフランシスに、ギルベルトはさっそく尋ねる。
「ビールは?」
嬉々とした表情でねだられても、相手が相手なので、彼にとっては喜ばしいことでもなんでもない。
その場にしゃがんで、フランシスはカウンターに備え付けられた冷蔵庫からグラスとビール瓶を取り出す。
瓶を開けて、冷えたグラスに中身を注いだ。
「どうぞ」
テーブルに置かれたグラスを手に取り、ギルベルトは一気に小麦色の液体を半分ほど飲み切った。
そして、大きく息を吐いて、高らかに言う。
「…やっぱこれに限るな!」
「良かったね」
こいつはこんなにおっさん臭かったか、などと考えながら、フランシスはつまみ代わりの前菜を出す。
「そういや、アントーニョたち遅えな」
「もうすぐ来るでしょ」
その時、ドアが開いて、誰かが入ってくる。
「…あ、ほら」
だが、店内に入った人間は、明らかにアントーニョたちではなかった。
準備中、と書いたプレートを掛けておいたはずなのだが、来客はそれに気付かなかったらしい。
しかも、この雨の中で傘も持たずに外出するとは、随分な変わり者である。
その変わった金髪の男は、床に水溜まりを作りながら、こちらへ歩いてきた。
「あ、今は準備中なんだ…」
「人を捜してるんだけど」
金髪が笑顔を作って、物腰は柔らかく言う。
だが、雨に濡れたレンズの向こうに見える、澄んだ青色の目は全く笑っていない。
「え?」
一歩、また一歩と近付かれる度、生臭い匂いが色濃く漂う。
湿気を含んだ空気の生臭さとは全く違う、嫌な匂い。
あれを例えるなら―血の匂いだ。
*
海岸から走って戻ってきたものの、車に乗り込んだ時には既に二人ともずぶ濡れであった。
そのため、レストランまでの十五分が終わってみれば、灰色のシートに染みが広がっていた。
「めっちゃ濡れたなあ」
「ああ」
フランシスのレストランの扉には、準備中と書かれたプレートが下がっているが、気にせず店の中に入る。
「…アントーニョ」
「フランシス、タオル貸してや」
「どうぞ」
「ありがとう」
フランシスは店の奥からタオルを持ち出し、アントーニョに手渡す。
アントーニョはその一枚をロヴィーノに渡した。
「……」
先程から、深刻そうな面持ちでグラスの中の気泡を見つめるギルベルトに、アントーニョは声をかけた。
「プー、どないしたん?」
ギルベルトは顔を上げ、アントーニョを見る。
「……」
その唇が、言葉を作りかけて、意味を成さずに止まる。
「…いや、やっぱなんでもない」
「?…フランシス、なんか暖まるもんない?」
「スープを温めようか?」
「うん。ありがとうな」
「どういたしまして」
そんな会話がなされている間も、ロヴィーノはすっかり水浸しになった床を見つめて、動こうとしない。
それを見たアントーニョが、心配そうに尋ねた。
「…?ロヴィ、どないしたん?」
質問には答えず、ロヴィーノは震える声で呟いた。
「…さっき、誰か来たのか?」
「え?」
何を言っているのかわからず、聞き返すアントーニョ。
「そんなことを聞いて、君はどうするつもり?」
フランシスには聞こえたようだが、またもや答えは出ずに、質問に質問が重なった。
「誰か来たのかって聞いてんだ!」
叫ぶロヴィーノから、焦りの色が滲んで見える。
しばらくの沈黙の後、答えたフランシスの声は、店の隅々まで響きそうなくらいはっきりと聞こえた。
「……来たよ」
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて、ロヴィーノは踵を返してドアノブに手をかける。
「…帰る」
「え?なんでなん?」
カウンターから立ち上がり、アントーニョはロヴィーノに近付く。
「うるさい!」
そして、扉を開けて出て行こうとするロヴィーノの腕を、慌てて掴んだ。
戸惑いを隠せず、アントーニョは尋ねた。
「理由くらい聞かせてや…」
「離せ!お前には関係ない!」
全く聞く耳も持たずに、それを振り払おうとしてもがくロヴィーノの爪が、アントーニョの腕に食い込み、肌の表面を抉った。
「…っ痛!」
痛みに顔をしかめ、アントーニョは思わず手を離す。だが、次の瞬間、そうしたことを後悔した。
「あ……っ」
声の混じった息を漏らすロヴィーノの表情は、罪悪感に狩られたのか、どこか苦しげで、また悲しげでもあった。
「ロヴィ!」
勢いよく扉を開けて出て行ったロヴィーノが、振り返ることはなかった。
取り残されたアントーニョは、ぽつりと疑問を口にする。
「…フランシス、誰が来たんや?」
「ロヴィーノを捜してる人」
「…なんで?」
「知らない。けど、ロヴィーノとは関わらない方がいいと思う」
淡々と、事実と意見を述べるフランシス。
ギルベルトは何も言わず、白く色付ける結露が、グラスを伝うのを見つめていた。
「…あいつからは、ヤバい感じがした」
フランシスは、あの金髪の、自分以上に嘘臭い笑顔を思い浮かべて、呟いた。
「…何言ってんねん」
苛ついているはずなのに、アントーニョの頭は、やけに冷静に働いた。
サディクの言葉を、録音して、繰り返し再生している気分だった。
こいつらが正しいのではないか、と一瞬だけ胸を掠めた思いに、余計苛ついた。
アントーニョは冷たく言い放ち、ギルベルトに尋ねた。
「プーもそう思っとんか?」
「…ああ」
自分自身に叱咤するかのように、アントーニョは叫ぶ。
「…っふざけんな!」
しん、とした空気の中で、後に続く言葉が、はっきりと異質な物として浮き出る。
「…お前らに」
フランシスは、あくまでも画面の向こう側を見つめる視線を送る。
「お前らに、何がわかるっていうねん!」
そして、怒りで顔を赤く染めたアントーニョに、平淡に返した。
「わからないよ。だからこれは、忠告と受け取ってくれ。…友人としてのね」
「……っ」
無味乾燥すぎた受け答えの所為で、頭に血が上ったアントーニョは、降り続く雨の中へ飛び出していった。
乱暴に閉められた扉の動きが止まるにつれて、滝を思わせる水音が小さくなる。
「…ギル」
扉の向こうは遠く、雨音以外は、何も聞こえない。
「ん?」
「俺のしたことは、間違ってるのかな?」
漏らしたつまらない呟きは、雨音に紛れて消え失せそうだった。そんなフランシスに、ギルベルトは笑って答える。
「いや、及第点だと思うぜ」
「そう。なら、いいや」
フランシスも、僅かに微笑みを浮かべた。
あんなに遠かった扉の向こうが、今は近く感じてしまうなんて、本当に、人間とはゲンキンな生き物だ。