やかましく騒ぎ立てるのは、かつてルームシェアをしていた後輩―ではなく、枕元の携帯電話である。
「…アル?」
アーサーはアラームを止めて、のそのそと起き上がる。
周りや、ソファーのあるリビングを覗いてみるが、呼んだ名前の人物はどこにも見当たらない。
「あれ、いないのか…」
ズキズキと痛む頭を抑えて、アーサーはテレビのスイッチを入れた。
この分だと、二日酔いは確実である。
「頭いった…」
画面の中のアナウンサーが昨日の出来事を淡々と述べていく。
ふとアーサーが面の右上の時刻を見やると、それは六時四十九分を指していた。
「うわ!もうこんな時間かよ!」
急いでシャワーを浴び、髪を乾かす暇もなく支度を済ませた。
一応、鏡の前でネクタイを締め、革のスーツケースを手に取って、家を飛び出す。
駅まで走る間、部屋がやけに整然としていたことが、頭をよぎった。
そういえば、昨日酒を飲んだ形跡すら、残っていなかった。
後輩はあんなに気の利くやつだったか、と思ったが、満員電車の人混みを掻きわけていくうち、そんな疑問は、すべてどこかへ行ってしまった。
会社に入り、アーサーは遅刻ぎりぎりのところで、タイムカードを押した。
「おはようございます」
「あ、おはよう」
後ろから話しかけられ、アーサーは言いながら振り返った。
そこに立っている黒い髪と同じ色の瞳をした男に挨拶を返す。
この会社では珍しく東洋人の彼は、今日もしわ一つないカッターシャツを着ている。
「今日はずいぶん遅かったですね。何かあったんですか?」
「昨日ちょっと飲みすぎたみたいだ」
アーサーが歩き始めると、彼も隣に並んで歩いた。
彼は人付き合いが得意ではないらしく、自分以外の人間と話すのを、ほとんど見たことがない。
「お酒はほどほどにしてくださいよ?」
「わかってるって」
冗談めかしてはいるが、明らかに釘を刺されてしまい、アーサーはつい言い訳をしてしまう。
「…昨日はだな」
「はい?」
「大学の時の後輩に会ったんだよ」
「だから、つい飲みすぎた…ってことですか?」
「ああ」
言う相手を履き違えているのはわかっているが、アーサーは意地になって言い張る。
それを知ってか知らずか、隣の人は苦笑して言った。
「…楽しかったようでなによりです」
「あ!もうすぐ会議始まる!」
腕時計を見て、アーサーは叫んだ。
「悪い。俺先に行くから」
「はい」
一応断りを入れて、アーサーは長い廊下を駆けていった。
一人残された黒髪の男は、特に急ぐでもなくがらんとした廊下を歩き続ける。
「…後輩、ね」
その男―本田菊の漏らした呟きを耳にする者は、どこにもいない。
*
少し、後ろめたいからかもしれない。
毎朝こうして早くに起きて、すぐに身仕度を済ませるのは。
他人と関わらないために逃げたのに、またその他人と関係し始めている、なんて。
馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
ぼろい上に狭いワンルームのアパートは、歩く度にギシギシと音を立てる。
玄関まで歩いたその時、声をかけられた。
「…兄ちゃん」
「フェリシアーノ」
予想通り、振り返ると弟がいた。
その背後には、必要最低限の家具しかない、殺風景な部屋が見える。
「…本当に、いいの?」
「え?」
すぐそばに向かい合うフェリシアーノは、まっすぐにこちらを見ている。
だが、呟く声は小さすぎて、何を言っているのかわからない。
「兄ちゃん、このままでいいの?!」
先程とは打って変わり、強い語調でフェリシアーノは言った。
「っ……」
「あの人まで巻き込むことになるんだよ?!」
そんなことは言われなくてもわかってる。
自分が一番理解しているはずのことを指摘されると、無性にやりきれない気持ちになった。
「わかってる!…わかってるけど…」
なんで、離れられないのか、自分でもわからない。
もはや、その先に続けられる言葉もなく、フェリシアーノの制止を振り切って、ロヴィーノは外へ出て行った。
*
本日も晴天なり。
昨日と同じような天気は、まだ続いている。
変わらない、変わらないでいてほしい日常も、まだ続いていた。
「あ、ロヴィ。おはようさん」
ロヴィーノは、毎日ここに来て、適当な時間に帰っていった。
変わることといえば、段々ロヴィーノの来る時間が早くなってる気がする。
それくらいだった。また昨日より早く来たロヴィーノに、アントーニョは明るく挨拶する。
「おはよ。…あれ、あの人は?」
きょろきょろと周りを見て、ギルベルトの姿を探すロヴィーノ。
「あ、プーは他のバイトがあるから来れへんって」
「そっか」
「今日も手伝いよろしくな」
そう言って作業にかかろうとするアントーニョに、ロヴィーノは声をかけた。
「…あのさ」
「ん?」
振り返って、アントーニョはロヴィーノの顔を見る。
だが、彼は言い出す言葉が見つけられずに、意味もなく唇を動かすだけだった。
「…やっぱ、何でもない」
「?変なの」
そんなロヴィーノの様子がおかしくて、アントーニョは笑みを浮かべる。
「…あ、そうや、ロヴィ」
ふと、ある疑問が浮かんだため、アントーニョは話を切り出した。
「な、なんだよ」
「俺が作業してんの見てたんって、やっぱロヴィやんな?」
「っ!!」
顔を真っ赤にして、言葉につまるロヴィーノ。
わかりやすいにもほどがある、と思ったものの、アントーニョは口には出さない。
「そうやんな?」
もう一度尋ねると、ロヴィーノは目を逸らし、声を荒げて言った。
「うっせえ!だったら何なんだよ!」
「なんで俺のこと見てたんかなって思って」
「なんでそんなこと聞くんだよ」
逆にロヴィーノが詰問すると、アントーニョは率直に答えた。
「気になってんもん」
しばらく視線をあちこちに泳がせて、ロヴィーノはたどたどしく言い始めた。
「…あんまり、楽しそうにしてるから…」
何か、昔のことをひとつひとつ思い起こしていくかのように、ゆっくりとロヴィーノは続ける。
「何が楽しいんだろ…って、思って見てた」
アントーニョは何も言わず、ロヴィーノの言葉に耳を傾ける。
車の発進音が、どこか遠くの方から聞こえる。
ここだけ世界から切り取られたようで、不思議な気分だった。
「今なら、なんとなくだけど、お前が楽しそうにしてた理由がわかる、気がする…」
今までしてきたこと全てが、その一言で報われた気がした。
親父の跡を継いだことの意味が、やっとわかった。
思わずアントーニョは、顔を綻ばせた。
「…な、なんとなくだけどな!」
最後にロヴィーノはそう強調して、アントーニョの顔も見ずにカゴをひっつかんでトマト畑の中へ消えていった。
日が、だんだんと高く昇り始め、辺りからは風に揺られて枝と葉が擦れあう音のみが聞こえた。
青々と茂るトマトを挟んだ向こう側から、ロヴィーノが話しかけてきた。
「…あの時、おっさんと、何話してたんだ?」
「おっさん…ああ、サディクさんか」
「なあ、何話してたんだよ」
「知りたいー?」
「ああ」
「せやなあ…」
少し考えて、アントーニョは言った。
「ひみつー」
「はあ?」
顔はほとんど見えないが、声で、全然納得していないロヴィーノの不機嫌な表情まで、想像できてしまう。
「ロヴィには関係ない話やで」
「…あっそ」
一応フォローを入れてみたけれど、思った通り全く効果がない。
「何?拗ねてんの?」
「べ、別に、そんなんじゃねえよ」
「かわええなあロヴィは」
ついつい本音が漏れてしまい、アントーニョの口元がつり上がる。
「だから、違うっつーの!」
そうやって必死に否定するから、ロヴィーノはからかい甲斐があるというものだ。
「はいはい。せやな」
「うぜえ!」
軽く相槌を打つと、ロヴィーノは叫んで、それから黙りこくってしまった。
既に、今までの本題が頭から抜けてしまったロヴィーノに、アントーニョは人知れず安心して、他の畑の様子を見に行くことにした。
アントーニョが行ってしまったため、一人になったロヴィーノは悔しげに呟いた。
「…結局、聞けなかったじゃねーか。ちくしょう…」