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「知音-If I cried,-」


子供のころから、絵を描くのが好きだった。
よく家族みんなで遊びに行った、家の近くの公園が大好きで。
馬鹿みたいに、ひたすらあの風景を描いていたんだ。

あまり裕福な家庭ではなかったために、週末に家族で行くのは、決まってこの公園であった。
家の周辺が見渡せる高台の上にあるこの公園は、見晴らしが良く、晴れた空の下ではますますきれいに見える。
下書きの線が描かれただけの白いスケッチブックを、水彩絵の具が青色に染めていく。
目の前に広がる空と、スケッチブックの空が、だんだん同じ色合いになってきた。
無性に嬉しく感じ、自然と顔がほころぶ。

「…また、ここの絵描いてんのか?」
「兄ちゃん!うん、そうだよ」
兄ちゃんは右隣に座って、スケッチブックの中の絵を覗き込んだ。
「よく飽きないよな」
ぼそりと兄ちゃんが呟くのに応える。
「俺、ここ好きだから」
「…そっか」

後ろの方から耳に馴染んだ歌声が聴こえてきた。
「…あ、お母さんだ」
澄んだ歌声は美しく、公園内に響き渡る。
それに合わせて歌いながら、筆を動かしていると、今度は左横から話しかけられた。

「…やっぱり、フェリは絵が上手だなあ」
のぶとい声でそう言ったのは、お父さんだ。

「ありがとう、お父さん」
「俺に似てくれて嬉しいぞ」
乱雑に頭を撫でられた所為で、髪の毛がくしゃくしゃになる。
「うわ、やめてよお」
手をどけようともがくと、筆の毛先がお父さんの鼻に当たってしまう。
「あ」
慌てて絵の具を拭おうと手を伸ばすが、お父さんはそれを笑って制止した。
「鼻が青くなっても、かっこいいだろ?」
「何馬鹿なこと言ってるの」

その様子を見ていたお母さんが、お父さんの鼻に付いた青色をハンカチで拭う。
「そう思わないか?」
「はいはい。あなたの仰る通りです」
「つれねえなあ。本当、ロヴィにそっくりだよ」
拗ねた声を出すお父さんの腕の中で、お母さんは、そうかしら、と笑って言った。

「けど、歌の才能までは受け継いでくれなかったよな」
「なっ…」
顔を一気に赤らめて、兄ちゃんはお父さんを睨む。
「あら、そんなことないわよ」
お母さんは兄ちゃんを励ますように言うが、お父さんは納得していないようだ。
「そうか?」
「そうよ。あなたの前で歌わないだけ」
「ふーん…。じゃあ、ロヴィ、歌ってみろ」
「は?」

突然の提案に、兄ちゃんはあからさまに嫌そうな表情を浮かべる。
「無理強いはよくないわ」
「いいじゃねえか。減るもんじゃなし」
ほれほれ、と笑顔で煽り立てるお父さんとは対称的に、兄ちゃんは眉間に皺を寄せている。
「…うぜえっ」
そう言って勢いよく立ち上がり、兄ちゃんはどこかへ走り出してしまった。
「あ、おい!」

兄ちゃんが見えなくなった後、お母さんは低く呟く。
「……あなた」
「俺の所為かよ!」
「当たり前でしょ。早く探しに行ってあげて」
「…わかった。フェリ、行くぞ」
「うん」

筆を置き、あまり気がのらない様子のお父さんと、兄ちゃんを捜しに行く。
その途中でお父さんと別れて、一人で公園を歩いた。

「…兄ちゃん」
高台にある公園の階段の横。
背の低い樹が植えてある陰に、兄ちゃんは座っていた。
「やっぱここにいたんだ」

以前この場所に、秘密基地を作って遊んでいた。
だが、ここは公園の中からは見えにくいが、外からは丸見え、という立地条件だった。

「…フェリ」
「…兄ちゃん、戻ろ。お父さんもお母さんも、心配してるよ」
言って、手を差し出す。と、兄ちゃんは少しためらって、その手を取った。







子供部屋の古びた扉が開く音で、ふと目が覚める。
久しぶりに昔の夢を見て、またあの公園に行きたいと思った。

「…だか…、今さら……危険だって言ってるでしょ!」

お母さんの声が廊下から聴こえ、意識がはっきりしてくる。

「俺も考えた、けど、そうする以外思いつかないんだ!」
「あの仕事を続けた方がいいに決まってるわ!あなたは止めていいかもしれない。だけど、私や、あの子たちはどうなるの!?」

きつい語調でまくし立てるお母さん。
お父さんは、分が悪そうだった。

「っ…それは…俺がなんとかする」
「本当になんとかなるって思ってるの?思ってるとしたら、救いようのない馬鹿ね!」
「やってみないとわからないだろ!」

今までなんとなく、見たくなくて、見ないふりをしていた事実に行き着いてしまった。
お父さんはきっと、画家になろうとして、なれなかった人なんだろう。
だから、俺の知らない世界に足を突っ込んで、もう戻れなくなったんだろう。
廊下から足音が近づいてきて、兄ちゃんが帰ってくる。

「…どうしたの?」

上半身だけ起こして尋ねると、いつものみたいに兄ちゃんは無愛想に言った。
「ちょっと、トイレに行ってただけだ」
「そっか」
またベッドに寝転び、兄ちゃんに背中を向ける。

言い争っていたこととか、お父さんが何をしてるのか、とか。
…多分、兄ちゃんは気付いてないんだろう。
でなきゃ、あんな風には話せない。







次の日の放課後。
部活が終わり、陽の沈みかけた通学路を一人で歩く。

いつもは兄ちゃんと帰宅している所為か、夕陽に薄赤く染められた道は寒々しく見えた。
家に近付くにつれて、何かが焦げるような匂いが強まっていく。
なにか嫌なものを感じ、自然と足が早まる。
少し離れた家の窓から、煙が立ち上っているのを見る。
灰色の煙を吐き出し続けているそれは、自分の家、だった。

「…嘘だ」

口から漏れた呟きは、野次馬の喧騒にかき消される。
身体が勝手に動き出し、一気に共同住宅の階段を駆け上る。
近所の人が腕を掴もうとしたけれど、振り払って走った。
鍵の開いた玄関のドアノブに触れる。

「熱っ…」

が、痛いほどに熱くて、手を離した。
もう一度ドアノブを握ろうとしたが、手を掴まれてできなかった。

「止めろ」

声のした方を向くと、知らない男が立っていた。
同じ学校の制服を着ているが、廊下ですれ違った覚えすらない。
金髪に、あの夢の空を思い起こさせる、空色の瞳。
強面の上、背が高くて圧倒されそうになったが、負けじと言う。

「…っ離してよ!」
手を振り払おうともがくが、相手の力が強くて、上手くいかない。
「止めろ。死にたいのか」
「っ……」

低く凄みのある声で言われ、僅かにたじろいだ時、その男は手を強く握ってアパートの階段を下り始めた。
「ちょ、うわあ!」
早足で歩く男に引きずられるように、人混みの中を通り抜けていく。
「君、誰?どこに行くの?」
その問いに対する答えはなく、2ブロックほど歩いて着いた先は、飲食店の脇の路地裏だった。
ほとんど人のいなくなったそこは、陽が暮れかけた所為もあって薄暗く、不気味だった。

男が振り返って、目が合う。
「ごめんなさい!なんでもするから叩かないで!!」
何故か、そう叫んでしまった。
すると、男は呆気にとられたような表情をして、それから困惑の色を滲ませた。

「…悪い」
呟いて、男は傍にある蛇口をひねり、出てきた水に繋いだ手を突っ込む。
「っひゃ…冷た…」
「大丈夫か?」
「え?」
「ひどい火傷ではないと思うが、一応冷やしておけ」
「…うん」

手が離され、流れる水の冷たさだけが感じられる。
肌がひりひりとする感覚がよみがえるが、再び徐々に薄れていき、遂には痺れてしまった。

「…さっきは、悪かった」
「え?」
「無理に連れてきてしまって…。腕は大丈夫か?」
「…うん、大丈夫だよ」

たどたどしく言うこの人は、先程とは違って、年相応の印象を持たせた。
「そうか。良かった」
「ねえ」
「なんだ?」

呼びかけると、空色の瞳が向けられた。
「君、誰?」
「…ルートヴィッヒ。ルートヴィッヒ・バイルシュミットだ」
少しためらって、ルートヴィッヒはそう告げる。
「俺、フェリシアーノ・ヴァルガスっていうんだ。よろしく、ルート」
にこやかにフェリシアーノが自己紹介すると、ルートヴィッヒも僅かに頬を弛ませて、言った。
「ああ。よろしく」
沈黙が訪れ、蛇口から流れる水が、地面に当たってはぜる音だけが、辺りに響く。

「…ちょっといいか?」
しばしの時間を空けて、ルートヴィッヒはフェリシアーノに訊いた。
「うん、何?」
「…手、見せてみろ」
水に濡れたままの右手を差し出すと、ルートヴィッヒはその手を取って顔に近づける。

「…おそらく、もう大丈夫だと思うが、痛むようであればすぐ冷やせ」
「わかった」
ルートヴィッヒはブレザーのポケットからハンカチを取り出して、フェリシアーノに渡す。
「使え」
「…ありがとう」

ルートヴィッヒと名乗るこの人は、良い人なのかもしれない。
フェリシアーノが、差し出されたハンカチを受け取るのを見届けてから、ルートヴィッヒはその横をすり抜けて表通りに出る。

「…ルート」
立ち去ろうとするルートヴィッヒを、フェリシアーノは呼び止めた。
ルートヴィッヒは足を止めるが、振り返らない。
一瞬言おうかどうか迷ったが、訊いてみることにする。

「今晩、泊めてくれない?」