香港の煌びやかなネオンで彩られた街を、一人の少年が走り抜ける。
鳴り止まない銃声と自らの呼吸音が煩わしく、それらから逃げるように。
狙いから大きく外
れて細い路地の壁を跳ねる弾は、当たらないと理解していても何かしらの恐怖を
感じさせた。スーツの上に着たコートが、ただでさえ走りにくい裏路地をさらに
走りにくくしているのだ。
軽く舌打ちし、角を右に曲がる。彼も懐から54式ピストル―中国生産版マカロフ
―を取り出し、安全装置を解除する。
そして、コッキング―初弾を薬室に装填―
し、追手の銃撃が止んだ瞬間に撃ち返す。
「…こういうのは、あまり得意ではないのですが」
嘆息混じりに出た言葉は、すぐに銃声にかき消された。
*
数時間前。
夕暮れ時に差し掛かった香港のある高級料亭に少年―ワンジュはいた。
左右に控えている屈強な男たちの中心に座り、端正な横顔の眉ひとつ動かさず目の前の白
人を見据えている。
アメリカ軍人と名乗っているが、本当の所は判ったものじゃない。そう、ワンジュは感じていた。
何よりも、武器取引の場を引き延ばそうとするかのような男の
態度に、不信感が募る。
長居は危険と理解しているはずなのに。
「1000万。それ以上は払いません」
「…こちらも命懸けで流しているんだ。5000と言いたいところだが譲歩して2000と言っている」
先程からこんなやり取りが何度繰り返されたことか。
下手な広東語は聞き飽きて久しい。
ワンジュは、その男の追い縋るような目を見て嘆息し、
「わかりました」
と返す。男が救われたと思ったのも束の間、
「交渉決裂ですね」
そのまま席を立とうとしたワンジュを、男は必死に呼び止める。
だが、それは既に周りを見渡すワンジュの耳に届いていなかった。
視られている。この店…いや、思えば香港に着いた時から感じていた。
…罠、か。
憶測が確信に変わり、今になって、身体に突き刺さる視線が神経を逆撫でする。
…だから香港に来るのは嫌だったんだ。
心の中で悪態をついた。
*
「Carriage,this is wand.Subject,Cinderella starts moving.(キャリッジ、こ
ちらワンド。サブジェクト、シンデレラに動きあり)」
カウンターの隅で立っている金髪碧眼の少年が小型無線機に呟く。
丁度柱の影になっているので、シンデレラからウエイターの格好をした少年は見えない。
『Rojer.Go out?(了解。外に出るのか?)』
片耳のイヤホンから聞こえる声に答える。
「Probably.(おそらくは)」
『Did it notice?(気付いているのか?)』
「I think so.(ああ。そう思う)」
しばらく押し黙って、キャリッジはシンデレラを注視し続ける少年に返答する。
『…Roger.We shold change misson,sholdn't we?(…了解。作戦変更するべきでは?)』
口の中で肯定しかけて、取り消す。
「No,we keep it.(いや、このままで行こう)」
シンデレラは必ず予想通りに動く。何故かそんな気がしていた。
*
予想通り、早くも手が反動で痺れてきた。
あまり長くは持たないことを確信し、ワンジュは軽く周りを見渡す。
料亭の正面口から脱出してから約1時間。護衛の一人は狙撃により死亡。
もう一人はワンジュを庇い負傷したが、それらを置き去りにした彼にとって大した事ではない。
むしろ、正面から脱出する愚は危険も承知の上で犯した事だ。
…自分を追い詰めるあの視線の正体を確かめたい。
そう感じていたのかもしれなかった。
とはいえ、今は『迎え』が来るまでの時間を稼ぎ、合流地点まで到達しなければならない。
連絡用の携帯電話を使う間もなく、銃撃戦に突入してしまったのだ。
今追いかけてくる奴らを何とかして…と考えを巡らせているうちに、銃が弾切れを起こし、ホールドオープンする。
「…っ」
こちらの様子に気付いたのか、一気に距離を詰めてくる二つの足音が聴こえ、ワンジュは微かに顔をしかめる。
懐から手榴弾を取り出し、口でピンを引き抜く。
1、2、と心の中で数えた後、投げた手榴弾は狙った所、追手の足下に落ち、起爆した。
熱と爆風がそれらの手足を吹き飛ばし、壁に肉片を撒き散らす。
耳を塞ぎ、炸裂音に備えたものの、余り効果は上げられなかったようで、馬鹿になりか
けた耳に悩まされながらも走り出す。
確実に戦闘能力を奪われたそれらの呻き声が追いかけて来るような感覚にみまわれたが、すぐに消え失せた。
追手は、あれだけではないだろう。少なくとも、残りは二、三人。
『衆寡敵せず』と、いう一節が頭に浮かんだが、誤魔化すように空の弾倉を落とし、予備と交換する。
もう予備の弾倉と手榴弾を持ち合わせていないことを確認し、本日何度目かわからない嘆息を吐いた。
裏路地を走り抜けて来たせいで、少し前からネオンの看板は全く見当たらず、申
し訳程度に設置された街灯だけが地面を照らしていた。
片手で携帯電話を取り出し、一件だけ登録してある番号にかけた。
呼び出し音が耳の奥に響き、なかなか出ない相手に苛々しながら走る。
裏路地の中でも道端の広い道に差し掛かったところで、空気を裂く音が聴こえ、地面がはぜる。
まずい、と思った時には、もう遅かった。
次の瞬間、背中に冷えた硬い筒状の何かが押し付けられる。
「動くな」
今日の取引相手を彷彿とさせる発音だな、と感じた。
「手に持っている物を地面に落とせ」
ぷつ、と呼び出し音が切れる音と同時に手を放す。
もう少し早くに出て欲しかったが、繋がったのであれば問題無い。
「何の用ですか?二人がかりで追いまわすなんて、不躾じゃ…」
後ろから銃声が鳴り響き、ワンジュは撃たれたのかと錯覚したが、風通しの良く
なった携帯電話から煙が立ち昇っているのを見て、思い直した。
「…お前は、シ…ワンジュで間違いないな?」
「…そうですよ」
十中八九、先程の視線の男だ。言いかけたのは標的名といったところか。
「だから、なんですか?」
「お前を拘束させてもらう」
「…嫌だと言ったら?」
言った直後、首筋に衝撃が走る。
殴られたのだと思った時には既に、意識を手放
していた。
*
誰かが泣いている。
手入れの行きとどいた桃の木が池の水面に移り、さながら物語の一場面のような風景になっている。
その池の岸部に、黒い髪の子供が屈み込んでいた。
背中しか見えないが、震えているのがわかる。
きっと、泣いているのはこの子だろう。
見覚えのある光景に、ここは王家の屋敷と気付いた。
またこの夢か。
何度も繰り返し観た夢。夢とわかっているのに、醒めることも、彼の背中から目を逸らすこともできない夢。
これから先も、全部知り尽くしているのに。
泣き声がより鮮明に聴こえ、現実味を帯びてくる。
―あの御方も、どうしてこんな奴を引き取ったんだ?
―分家といっても、最早名ばかりであったのでしょう
―穢らわしい。どこの馬の骨ともわからない人間がここにいるなんて
―当主様はどうなさるつもりなんだ?
―御子息も、どうしてあんな奴に構うんだろうな
夢は終わらず、ひたすらに嘲笑と侮蔑の入り混じった声が響く。
「おい、何してるんだ?」
いつの間にか、子どもの後ろに、それより少し年上に見える少年が立っていた。
…あの人だ。
茫然と、そう思った。
泣いている彼の背中がびくつき、恐る恐る振り返る。
「なんだ、泣いてたのか。…あんな奴ら、気にしなくていいよ」
『…え、と…』
習いたてのここの言葉と、前の言葉が混じっている、と他人事のように思った。
「…みんな、"対象"が欲しいだけだ」
夢の中でその人は、憎々しげに吐き捨てる。
「…たい、しょう?」
「あ、な、何でもないよ」
ごまかすように言いながら、その人は彼の涙を拭って、手を取った。
「ほら、行こう」
"私"は頷いて、その手を握りしめた。
また"迎え"に来てくれる。"兄上"は必ず来てくれる…